1本の電話

2005年2月4日
とうとう、電話が来てしまった。私は仕事中だった。仕事中に携帯が鳴るのは当たり前の職業で、ディスプレイの電話番号を確認することもなく電話を取る。時刻は丁度昼になったところだった。

電話を寄越したのは母だった。声は沈んでいた。彼女と、亡くなった義母はまだ一度も会ったことはない。妹と義弟が結婚したとき、既に義母は末期がんを宣告されていたからだ。それでも、自分の娘を託した先の、自分と同じ立場にあるひとを、彼女なりに大事に思っていたようだった。

実際、義母は妹にとてもよくしてくれたようだった。下町の母らしいきっぷのよさと勢いに、最初妹は呑まれていたようだったが、長男のところにはるばる北海道から嫁にいった妹を、義母はとても喜んで迎えてくれたらしい。次第にふたりは仲良くなり、料理を教えてもらったり、美味しいお菓子を一緒に食べたりするようになった。でも、そのとき既に妹は彼女の命が後少ししかないことを知っていた。義母は最期まで自分ががんであることは知らされなかった。多分、妹はそれを隠すのに苦労しただろう。彼女は隠しごとには向いていなかった。

去年の秋頃にはさすがに義母は自分がただの病気ではないことに気付いていたらしい。普段、滅多に会わない自分の兄弟たちが頻繁に病院に訪れるようになったからだ。義妹はそのことでいつも怒っていた。隠している意味がないと言って怒っていたが、兄弟たちにしてみれば、命の期限が既に切れてしまった妹を、どんな理由があるにせよ、放っておくことなど出来なかったに違いない。

義母は、医師の宣告より数ヶ月長く生きた。彼女が亡くなったことを聞いた私の父は「よく頑張ったね」と呟いていた。義母は、私の父より4つも年下だった。

電話があってすぐに私は上司にそのことを報告して、会社から家に舞い戻った。飛行機とホテルの手配をするためである。私と父は東京に慣れていたが、手配については私の方がもっと慣れていたからだ。最低限の仕事を片付けて家に戻ると、既に父も仕事を抜け出して家に戻っていた。私は両親と最低限のことだけを話し合って、ごく事務的に飛行機とホテルの手配を済ませた。おりしも北海道はもうすぐ雪まつり。1週間遅ければ飛行機の手配など、到底出来なかっただろう。だからと言ってよかったなどと思うわけもない。ただ、何の感情もなく飛行機が取れたことを思い、窓の外を見た。明日は晴れるだろうか、飛行機は飛ぶだろうかと。

その後、父と私は慌てて会社に戻った。どちらも今は忙しい時期なのである。案の定、私は最低限の休みしか取れなかったので、航空会社に電話をして私だけ飛行機の便を一日早くする。

そうして残業を終えて家に戻ると、既に両親は仕度を終えていた。私も急いで仕度をしたが、気がつけば夜が白々と明け始めていた。青い朝の中、ものすごい雪が降っていた。

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